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心の声・心の音が和む「心理学・占星学・魂からのメッセージ」自動手記コラム

親という理想像「親」という肩書きを外してみる

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親という概念は

自分の人生に

一番身近な方がモデルになっています。
 
 
 

そして

そのタイプはきっと両極端に現れると思います。

 

 

凄く賢い完璧な母親

という光景を見てきた方は

 

 

母親=すべてをてきぱきとこなせて、凄い人、完璧な人

このインパクトが強く埋め込まれ

自分をその価値観に当てはめるという幻想が起きます。

 

 
家事に子育てに両方を完璧にこなし、

そして妻としていつも笑顔でいる

そういう姿から、

母親はこうであるべきだ!というモデルが出来上がります。

 

 

〜であるべきだ

イコール(=)〜でなければいけない。

という強迫観念を自分に押し付ける思考になっていきます。

 

 

しかしそれは、

母や父の人生の一部であり

子供目線で見える一部でもあり

そのしっかりした完璧な母の一部しかみえていないのです。

自分側から見える光景の母親像なのです。
 
 
 
逆に

母親なのに・・・・

という光景を見てきた方は

 

 

  • 母親なのに、どうして母親らしいことをしてくれないの?
  • 母親なのに、もっと子供に寄り添ってくれないの?
  • 母親なのに、どうして子ども優先じゃないの?
  • 母親って、そんなんでいいの?
  • 母親なのに・・・

母親像に関しての不満や勝手な対比が出てきます。

 

時には

もしかして

私もこうなってしまうのでは?

というモデルが出来上がる人もいるかもしれません。

 

 

 

一番近くで見てきた母親像というものが、
親という肩書から不信感になり
 
 
自分が親になりたくない、
自分も同じように子供に接してしまうのではないか?
そういう思いが出てくる方もいらっしゃるかもしれません。

 

 

自分が想像する母親像とかけ離れている時、この経験が

母親像というモデルとの溝が

心の傷となってしまう。

 

 

極端なのですが、

母親像という

理想像を持っている人には

 


自分が

望む、期待する、認める

母親像と比較していることにもなります。

 

 

 

母親はこうあるべきだ

という事は学校でも習いません。

 

 

なので、
周りをみて私たちは勝手に想像して
そうなる、そうなってしまう。

そうならなければいけない。

などという思いがでてきます。

 

 

母親という理想像=母親という型を作ってしまうことになります。

 

 

幼少期は、この理解がまだ難しい

無意識に、自分以外の母親を見ると

より無意識にある母親像を

幻想してしまうかもしれません。

 

 

 

母親ではなく、個です。
母親は肩書きです。

 

しかし、

母親は

子供を養育し始めた時に

必然的で勝手につけられる名称です。

 

 

 

 

 

誰もが一人の魂として
人生を通して学んでいる途中

 

 

 
確かに自分が経験してきた、母親ってあると思います。
これは、自分がそうなる理想ではなく
見てきた、見せられている母親としての学びにしか過ぎないのです。

 

 

なので、

同じにしなければ、理想に近づけなければという考え方は

思考のバランスが崩れてしまいます。

 

 

 

母を子を通して学びにしている人もいます。
そういう人はもしかしたら、
子育てが順調にいかなかったかもしれません。
その状況を、私たちは見ただけにすぎないのです。

 

 

 

母親として自分が想像する理想的な母との関係を築いてきた人は

もしかしたら、母親との学びではなく、

もっと違うところに重点を置いた学びがあるかたかもしれません。

 

 

 

家族という枠ではなく、外側に関わる人間関係
仕事やお金への学びかもしれません。

 

 

なので、

私たちはその人の学びの一部を見ているだけです。

それに自分を当てはめるという方が、難しいんです。

 

 

違う魂ですから学びは違います。

 

 

一人一人違うので、
子育ても順調の人もいれば、少し時間がかかる人もいます。

 

 

時間をかけて行う子育ては、
お子さんとの絆、愛がテーマにあるかもしれないですよね。

 

子供から学ぶことがシナリオになっているのかもしれません。

 

 

まず、

自分が理想としている母親像というものがないだろうか?

内観してみると良いかもしれませんね。

 

 

母はこうあるべきだ!という思考で当てはめていないかな

向き合ってみよう。

 

周りのお友達が理想の子育てをしていて

完璧なお母さんをしている
それは良く見えるかもしれません。

 

 

誰とも比べる必要もないんです。

 

 

私も同じようにできるかな?
比べる意味も無いんです。

 

 

だってね、

魂の学びが違うから


自分のために起きている日常なのですから。

 

 

誰かと比べてみたりしても
自分にとってはストレスにしかならず

自分の学びは、

他者と比べるのではなく

自分の中にある自分と比べてみよう。

 
昨日の自分と今の自分
  • 成長できているかな。
  • バランス取れているかな。
  • 自分を労っているかな
  • 自分を許せているかな
  • 自分を愛せているかな。
自分の中での比べっこ。
内観。
 

 

 

親子関係の学びには
子供との関係で、親という学びをする人
親との学びのために、子供側として接している人
どちらも大切な学びです。

 

 

 

不完全だから子供との学びをして

不完全だから親との学びをしている

完璧であったら学びは何もない。

 

 

不完全がスタート

 

 

親子関係で、何かを学び

お互いにとって、気づきがあるのです。

 

 

 

母親も
養育者になり母親0歳からのスタートです。
 

型にはめること、いらない期待をすてること
周りと比べないこと

 
 

周りと比べるために

赤ちゃんが欲しかったわけではないことを思い出してみよう。

 

 

 

逆に、

母親との間にうまくいかない関係がある時

置き換えてみよう

 

 

どれだけ経験しても、一生を通して
親子間の学びはあり、いつの地点で気づけるのかが大切です。

 

 

年齢を重ねる=いい加減にわかってよ。ではないのでね。

気づけた時が、

親子関係からの学びを

自分の人生の糧にできるのです。

 

 

 

親という肩書きの目線でみるとき 

 

 『親としてどうよ!』

 


と、親を裁いている思考がある。 
 それをやめたとき=期待しなくる 

 

 

 親としてみるとき 

「無意識に、与えてもらう」という思考が生まれる 

 

 

それは

無条件に愛され育ったからかもしれない 

 しかし、 

 その記憶はきっと幼すぎて抜けているのだろう。 

 

 

無条件の愛の経験がない時、
与えられるという期待という経験を知らないので

 

 

親から期待をする

という思考が生まれないのですから。

 

 

 親という肩書きの枠で見ている親像を

手放せているとき 
 親の生き方をそのまま受け入れ 

 一人の魂とした目線でみられるようになり

 

親の人生の背景までを

理解しようという視点も生まれてくるでしょう。

 

 

 きっと、子ども側の知らない人生経験があり 

 親もまだ、学びの途中だから 

 間違えるし、未経験な事もある 

 

 

 それなのに、親として!という型にハメて 

 親をジャッジするって 厳しいかもよ? 

 

 

子育て年齢=理解度ではないから

子育てから、何を学び気づけたのか?

ここが重要なのだから

気づきが起きた時から、無条件に愛情を注ぎあえるのかもしれません

 

 

 

 子ども側が裁く必要はない 

 「親に何かをして欲しいという思いがあった」ということを認め 

 

 

それを叶えて貰えなかったことに 

ただ、
拗ねていただけなのだ。 

 

 

親をそのまま 

親のありのままを受け入れてあげよう。

 

 

気づきが起きてくることで

周りも時間とともに変化していきます。