星のバロメーター☆心理と感性をプラスして読む♪西洋占星術

心の声・心の音が和む「心理学・占星学・魂からのメッセージ」自動手記コラム

思考癖と自分軸のあり方

私たちの思考の選択は

この瞬間、常にあり

常に、選択を無意識にしながら

1日の時間軸の中で出来事を経験している。

 

 

 

その時の選択は

無意識になるので、いつもと同じパターンになりやすい

しかし、意識すること

この瞬間「選んでいる」と認識することで

思考癖は、癖でなく思考回路となり

 

思考回路は、次の瞬間から

変えることも

できることに

気づける

 

 

思考の選択には

私たち個人の価値観の延長にある

そして、

選択は、価値観という選択の他に

自分軸のあり方も左右される

 

 

自分軸を持っていないことも

不思議ではないけれど

それは、

自分軸という認識や設定という

意識をしていないだけで

 

 

本当は、こうなりたい自分像って持っていて

その自分=そうありたい自分に沿って

日々の中の選択もしている

 

 

無意識だから意識させることが大切であり

意識して生きることが

常に、自分が意識して

この瞬間を選んで

出来事を経験している。

そういう認識にもつながる

 

 

 

私も日々いろいろなことを考え選択しますが

意識していることもあり

意識していないこともある

 

 

けれど

自分がどんな思考回路にあるのかに

意識を向けることで

その選択に絡みつく、自分の心情を同時に読んでいるのを

感じながら、学び気づき

 

 

パターン化していることを

認識しながら、変えていきながら

新しい思考回路を作っている感じです。

 

 

 

そうするのは、

私自身が、後悔することが

出来事の中であるからかもしれません。

 

 

 

私は、思考の選択をするときの基準には

迷うならば止める

後悔するならやる

 

という思考選択の基準があります。

 

 

 

選択する時に、この言葉を自分に投げかけて

感情の整理がつかなくても

Yes・Noを選択します。

 

 

 

なので、もうどうでもいいや、、、、

あとはなるようにしかならない

必然しかない・・・

っていう投げやりになるのですが

 

 

そうしないと、

迷いから立ちきれない自分がいるのも

わかっているので

この選択の仕方で、ずっと選んでいます。

 

 

これをしなかったとき

やっぱり後悔する。

 

 

 

自分のあり方や選択を試されることも

日々何かのきっかけで起きます。

 

 

 

先日の出来事で

車を運転していたら

前方でお年寄りの方が三輪車自転車でふらついていて

危ないな〜と、減速して走っていて

転びそうなほどだったので、道路で止まって見守っていると

 

 

車道に転んでしまいました。

私が先頭車両だったので、距離を空けて停止したのですが、

 

 

 

この瞬間

思考の中でどうなっていたかというと

 

 

 

「危ない・・・大丈夫かな、、、立てるかな、、、助けてあげようかな、、、

でも、私がひいたと思われたら、、、、、、、

でも、そんなことはどうでもいい、ここで助けなかったら

私が後悔する。」

 

 

 

一瞬でこんな会話を脳裏でして

その間も、倒れたままもがいていて

立てない様子でした。

 

 

 

車道との間の路肩に自転車が倒れて乗り上げ

その上に老人の方が乗るようにして車道に傾いて

倒れてしまいました。

 

 

 

暫く待っても、立ち上がれない様子なので

車で、前に出て少し路肩に寄せて止めようとしたところで

横から若い女性が車道を横断して助けに来ました。

 

 

 

また一瞬で思考は働き

「あ、助けに来た人がいたから私はこのまま走り去ってもいいかも・・・」

 

 

その直後、

「絶対に後悔する。どんな状況でも助けが必要な人が目の前にいるのに

立ち去るなんて、絶対に後悔する。」

 

後でグジグジする自分を想像できた。

 

そして、車を降りて駆け寄りました。

 

 

 

車道に鍵が落ちていて渡すと

「すみません」っておじいちゃん。

 

 

人間って、こういう時も謝ってしまうんだよね

なんで謝るんだろう・・・って

ちょっと不思議になってしまったんだけど

それが日本人なのかもしれないね。

 

 

自転車を起こしても、ちょっとフラフラしていて・・

「このままあっちまで押していきます」って言ってたので

動き出したところで、車に戻り帰ってきたのですが

 

 

自分の保身を考えた思考が出てきたことに

モヤモヤしていたのが現状

 

 

だけど、それが自分の身を守るという

防衛反応なんだろうなって思う反面

きっと、私自身が試されているんだろうな〜って感じました。

 

 

 

以前も、郵便局で白杖を持った方が入ってきて

入り口に柱があって、

ぶつかりそう・・・って思いながらも

声をかけられなかったんですが。。。

 

声をかけたら、嫌に思うかなって勝手に想像してしまって・・・

 

 

昔、息子の関係で、聴覚障害の講演会に参加した時に

 

「私たちは、可哀想なんじゃない、助けが必要なときは自分から伝えるので

見守って欲しい」って言っていたのを見たのですが

 

 

できることまで、手を出しすぎないで欲しい

という意味もあるんだと思う

 

 

今、思うのはそういう人もいるし

でも助けを伝えられない人もいるって思うので

とっさに出る自分の行動を制限する必要はないのかもなって思うようにもなった。

 

 

それは私の問題で

助けを拒否された時の、私の気持ちの整理がつかないという

私の問題でしかない訳で

 

「助けたい」という気持ちが出た時に、

それはシンプルに行動してもいいのかもしれない。

ということも思えるようにもなっています。

 

 

でも、この経験をしてすごい後悔して

「自分は冷たい人間なんだな〜」とか

「あの時なんで声をかけられなかったんだろう」って

 

 

結局は

自分のことしか考えていないんだろうなって

反省したのを思い出して

 

 

今回は、そのお試しで

似た状況が起きたのかもしれないって思っている。

 

 

 

「助けが必要なこと、ありませんか?」

この一言が言える人間でありたいと

再確認しました。

 

 

 

心配性な面は、私自身の性質でもあるけれど

その気持ちを他者に向けられた時、

心に繊細に寄り添える人になれる。

その思いが

自分の生き方としての

にもなっています。

 

 

 

保身は、人間の持つ防衛心だから

反応することが正常

 

 

その先の選択として、

自分の生き方や人としてのあり方を更に見極めて

決断した時

後悔ではなく、

自分を誇れる生き方に変わるのかもしれないね。

 

 

 

 

自分の中にある

人を助けたい、困っている人に寄り添ってあげたい

その気持ちは、ことあるごとに

私の中にある。

そう感じています。

 

 

この気持ちが

私の生き方の軸にもなっています。

 

 

深い学びの経験でした。