友達は、毎日つまらない。
と言っています。
どんな捉え方をしたら、日々に変化をつけていけるのだろう?
つまらない???
つまり、現状に満足していない?
つまらない???
つまり、他にやりたい事がある?
つまらない???
つまり、待ちの姿勢
私たちは、生きている限り
時間を与えられている。
当たり前ではない
奇跡という時間が毎秒訪れている
つまらない???
まだ、
やれること
やりたいこと
あるんじゃない?
与えられている
時間
つまらない?
それは、
「幸せ」なことも、意味している。
つまらない?
それは、
人生に波乱がある状態を待ち望んでいる。
幸せの定義を
再確認してみるといいかも。
「幸せ」について
どんな状態を
望んでいるのだろう
期待しているのだろう
過ごしたいのだろう
現実にある
現状をしっかりと自分で見て、考えて
幸せとは?
その現実を感じて
気づこう
もしかしたら
人生に波乱続きだったことで、
安心安全の日々が
どれだけの幸せ時間であるかという
認識がまだないのかもしれない
まだ
幸せな状態であることに
気づけていないのかもしれない
まだ
幸せな状態であることに
慣れていないのかも知れない
人間はないものねだり
波乱続きの時は、安定を望み
平凡な日々の時には、不満を感じる
現実は、自分が望んだ結果。
過去に
のんびりゆっくり過ごしたい。
そう願い続けて来たのかもしれない。
人間は、そう願ったこと
願っていたことを、忘れてしまう
それは、
願っているときに、その結果が現実化しない
忘れたときに、現実化する
願っているときには、
顕在意識によって操作する思考が現れ
忘れたときには、思考の操作がなく
願いは手放されている
だから
望んだ思いは
そのタイミングまで
水面下で育ち
現実化するタイミングで
具現化してくる
人生の前半に、
波乱万丈、紆余曲折という
現実経験が多かった場合
波乱や浮き沈みの人生展開に
慣れてしまったのかもしれない
そして
それが自分の人生だと
評価・決定・断定し誤認識
しているのかも知れない
そういう人生が「私の人生」だという
認識=決定
長い人生の中で、それが当たり前であったように
現在も
決定し続けることによって
つまらない日常
変化のない安定の日常を
受け入れられない
つまらない日常=私の人生ではない
この認識がされている可能性
だから
波乱や日常が変化続きの人生に慣れ
何も起こらない日常が
つまらないと誤認識している
もしかしたら
波乱や変化続きの人生ではない
反対の人生は、
自分が生きる人生ではない
そう決めつけているのかもしれない。
人間は、無い物ねだり
波乱や変化続きの人生に慣れ
その人生の先にある
手に入らないと思っていた「幸せな日常」を
求めていている状態に
慣れているのかも知れない
願い続けている状態
それは、
頑張る先にある人生の経験『幸せ』と認識している可能性
何も変化のない状態
頑張っていない自分を認められていない
頑張らない自分を受け入れられていない
何もしていない自分を卑下している
こんな心理も紐づくのかも知れない
それは、
幼少期に
頑張っていない自分は認められない
頑張っていない自分は受け入れられない
無意識にある呪縛にかかっているのかも知れない。
今の現実に満足していない?
渦中にいると見えない
自分が不幸という
勝手なレッテルを
自分に貼ることに慣れ
その自分を幻想し続ける時
現実にある自分を
受け入れられないので
大切なことに
気づけないかもしれない。
後悔しない人生を選択する
まだ、やり残していること
やれる事、やりたい事
あるのかもしれない。
何か変化を起こしたいこと
この人生で
気づくことがあるのかも知れない
まだ取り組んでいない課題や目的が
あるのかもしれない
そこに気づくために
つまらないと認識し
何かの行動を起こすように促されているのかもしれない。
つまらない日常?
それは
自分が作り出していると、気づけるとき
次の行動につながる。
つまらない日常
それは、もしかしたら
受け身の体制で、
自ら変化を起こす
気力が薄くなっているのかもしれない
受け身の体制?
何かが起こることを期待している状態かもしれない
誰かが人生を変えてくれると
願っているのかもしれない。
受け身で生きることに慣れていると・・・?
人生は外側の他者から
出来事のきっかけを与えられる
けれど、それさえも
本来、受け身ではなく
意思決定は
常に自分の中にあり
選択をして決断しているという
無意識下の思考がある
受け身の人生は
受動的で何かが周りから与えられることを
待っている
人生は受動ではなく、主導に
人間は矛盾な生き物だから
他者から出来事やきっかけを与えられることにも
当たり前になっているとき
自分の意思・目的・人生が見えなくなる
出来事は他者から与えられる
けれど、意思は自分主導にあるとき
そこに矛盾が出てくるのも必然
だから
人は、そのときに喜怒哀楽を選択する
矛盾の中で起こるから
自分の中の思考と感情が一致しないことによって
ストレスとなる
葛藤が起こること
それは
自分の思考と感情が折り合いがついていないこと
主導の人生、主観の人生
ここには、自己コントロールは容易かも知れない
自分の思いと好き、心地よい感覚を選び続けられるから
ただ、それだけで人生は回らなものだから
他者が加わることで
自分の軸を揺るがせられる
それが違和感として現れる
けれど
主観は、とても狭い視野の中で人生を送ることになる
だから
他者という、主観ではない
違う価値観に触れることが必要で
違う価値観に触れることが
結果
自分の価値観の広がりを作り
許容範囲が広がったり
ものの見方や知識、知恵が増えていく
これが人生の歩み方として
起きている。
だから
人の話や価値観を受け入れられずに
閉鎖的だったり、否定的だったりすることは
自分にとって
結果、
狭いものの見方になってしまう。
自分が正しい
という主観は大切だけれど
その考えもあって、でもそれだけでは
人生が回らないことにも
気づく必要がある。
だけど
本人が
自分で
人生の変化の気づきをえなければ
変化のきっかけも起きてこない
人生は自分で
選択決断している
だから
他者をコントロールできない
本人が心底変わりたいという
意思決定をし
「変わる」という
意思決定をし続けない限り
現実的に変化は見えてこない
ものの見方や捉え方は
大きく人生の変化を助ける
そして、
考え方や捉え方が
この先を歩む人生で
自分にとっての歩みやすさに変わって行く
主軸がないとき
人からの評価を得たりする
承認欲求が強くなる
その欲求が強くなることで
人から、受け入れられている感覚
愛されているという感覚
それを得られないことで
自分の価値や評価、または尊厳までを
否定する思考が生まれていく
自分で
自分を受け入れること
自分を愛すること
自分を認めること
自分の人生を信じること
自分の尊厳を守ること
それをし続ける必要がある
けれど
人間は完璧でありたいと思い続ける
完璧であろうとするから
人は学び続ける
それも大切な思考
学びのために、完全であろうとすることは
人生の目的にあってもいいかも知れない
けれど
人間として生まれているのだから
人間としては不完全でいい
そう、与えられているのだから
ロボットではない
思考し選択し決断、行動する
間違うこともある
失敗しないと
どれが正しいのかという
選択肢が存在しない
比べる対象がない
生身であること
時間という枠の中で生きること
人間だから
ロボットではないのだから
完全ではない
不完全でいい。
それに気づけたとき
また次の未来の生き方が
変わっていく。
一つずつ、一歩ずつ歩めばいい。
狭い価値観の中で
自分を評価しない
人生という
まだ学びの途中、過程の中にあるのだから
ただ、一つ
今の現実を生きている自分は
「後悔のない人生でしたか?」
日々、自分に問いてみよう。
1日の終わりに
与えられた時間に
感謝をもてる人であろう
今日1日を終えて
後悔のない人生でしたか?
毎日を後悔しないように生きる
そんな「選択」の仕方で
出来事・思考・感情を、選ぶ基準にしてみたら
次からの選択
心のあり方、人生の歩み方
変わっていくかもしれない。