考え方、価値観は人の数だけある。
自分自身を信じきれていなかったり
認知には二つ以上の捉え方があるとは?
自分の人生にだけ通用してきた価値観なのです。
多くの人は、自分の価値観から
相手の気持ちや情報を想像して、
わかった、知ってる、理解していると、誤解する時がある。
他者の状況を想像しているだけなのです。
その人の立場に
自分を置き換えて
考えている理解ではない事が多い。
自分の経験してきた、似ている状況を重ね合わせて、想像しているのです。
他者の置かれている環境、状況、見えない過去や時代背景、
心の中にある傷や思いを含めて想像出来ていないとき
それは、本当に、相手を理解している、その状況がわかる。とは言えないのです。
自分の価値観という眼鏡をかけて、みている想像の範囲なのです。
何を考え、何を感じているだろう。
そこから見える景色や
人生の背景にはどんなものがあるだろう。
その全てを含め、
男の子が発言する言葉になっています。
次は女の子の側に座って感じてみよう。
何を考え、何を感じているだろう。
そこから見える景色や人生の背景にはどんなものがあるだろう。
その全てを含め、
女の子が発言する言葉になっています。
どちらにも人生の見えない景色、
置かれている環境、価値観が違う。見え方も違う。
その上で、私たちは向かい合いコミュニケーションをとる。
時に、向かう合うことから
寄り添う側に立って考えてみる。
バランス
中立な立場に自分の思考を置き換えられる時、
それは自分にとっての
優しい思考の選択になります。
お互いの立場になったものの見え方、捉え方。
上下ではない中立
いい、悪いという優劣でもない
ただ、ある。
喧嘩両成敗という言葉がありますが、
どちらの意見も聞くことが大切ですよね。
そこに価値観の違いがある。
それをお互いに理解した上で、上下を決めるのではなく
自分自身の心のあり方、人としての接し方をしてみよう。
人として、他者に向けた言葉や行動は
自分が不快を感じることを
他者にしていないだろうか?
もしも、
それをしてしまったと気づけたときは
謝罪をしたらいい。
もしも、相手に不快感を投げかけられたとき、
人として受けた傷に関して、他者に気づきがあるならば
それは、他者のために自らが辛い経験を選び、
人の気持ちに気づけたのだ。
と学べる。
どちら側を経験するのかは、わかりませんが、
お互いの立場を経験して
初めて人は他者の気持ちに気づけることもたくさんある。
自分だけでは
自分にしか興味が向かずに
自己中心的な身勝手な行動・言動になってしまう。
そう歪みが出ないように、どちらの経験も貴重なのだ。
気づける人であろう。
出来事はいつも必然なのです。